月よ夢よ

親愛なるあなたへのお手紙として

夏の日のわたしでありながら

 

 

 

 夏至です。この日は自分自身の光と闇にむかいあい、わたしはわたしを、あなたはあなたを受け入れることが、とても大切になる日です。このような日に、去年の冬に綴ったもう色褪せつつある記憶の、しかし現在のわたしがわたし自身になるために必要でもあった、「過」ぎ「去」った日に綴った文章を見つけました。これはわたしにむけられたなんらかの符号なのかもしれないと思い、だからふたたび誰かに読まれ、それが意味のあることであったことを記録するために、わたしはわたしのために、ここにもう一度記しておきます。

 

 

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 エドワード・ロバート・ヒューズ「夏の夜の妖精たち」

 

 “この森から逃げだそうなどと、そんな気を起こしにならないで。けっしてここを去ってはなりません。それがお望みであろうと、なかろうとあたしは妖精、それもただものとは違う、どこへ行こうとつねに夏の日がわが身に寄り添うてくれる、そのあたしが愛するのです、だからいつまでもあたしのそばに……”

 ウィリアム・シェイクスピア 『夏の夜の夢』 新書文庫

 

 *

 

 冬が溶けてゆこうとしている。わたしは巡りくる春の喜びの乱舞を跳びこえて、永遠の夏を夢みている。夏の野に鈴のように生きる妖精のことを考えている。鈴の音色はいつまでも余韻をひいて、ひとつの夢のように果てなく儚い。

 わたしは深いくらい闇の森のなかで光を探している。

 その「光」とは、ヒューズが描いたこの絵のような、美しい灯なのかしら。

 

 幼いころのことです。

 蛍狩りに行ったとき、わたしは暗闇のなかにひかりを見ました。それはわたしが探し求めていた光のように見えました。和泉式部の歌が、わたしの頭のなかに虹色のシャボンのように浮かんできました。

 物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる

 蛍という生き物は、あの碧い光によってみずからの身の内に宿った、二文字の母音を放出している。その《愛》が飛びかうさまを眺めて河原で放心していると、宙を漂っているそれが、まるでおのれのからだから抜けだした霊魂のように感じられて、空間を彷徨っているそれが、いとしいひとのもとに辿りつくことができたなら、というあの歌へのあこがれとしてわたしのなかで結晶化し、辿りつきたいいとしいひともいなかったにも関わらず魂を飛ばそうとしたことがありました。

 心をダイヤモンドのように無色透明にして、瞑想するように目を閉じたなら、魂だって飛ばせるのではないかと、幼心にわたしは考えたのです。しかしいくら待ってみても、わたしはわたしのまま、肉体という器に精神という枷は残されたままでした。

 

 肉体というものをもっている人間の身ならば、この地に根ざして生きていかなければならない。わたしは透ける翅をもつ妖精ではないのだから、天の生き物ではないのだから、いくら憧れても、魂を発光させて飛ばすことなどできない。

 わたしはただ、自分の足で歩いてゆくだけ。この森のなかを。それが光だと、自分の信じるもののほうへ。どこへ行こうとつねに《夏》の日のわたしでありながら。

 

 *

 

 日づけを確認したらこれが書かれたのは2017年2月25日のことでした。そして翌26日にこのようなことも綴っていたようです。

 

 *

 

 天の星を夢みていたころ、わたしの背には翅があった。空に翔けていくことさえ叶わぬ祈りではなかったころ、あのひとを愛した。二文字の母音の重みで羽ばたくことをやめたわたしの重力を振り切るように、かれは白い蝶となって飛んでいった。あのひとを喪い、天から失墜したわたしは女になった。

 神を失くしたわたしに命じることができるのは、自分だけ。太陽のように想っていたひとはわたしのなかに溶け、わたし自身となった。わたしは大地の色をした目のひとを探した。あのひとが天の夢だったならば、つぎにわたしのまえに出現する誰かは、地の現を教えてくれるひとだと思った。

 もうわたしには翅がないことを教えてくれるひとだと思った。奇跡のような少女時代は終わったよ。十二時の鐘が鳴り魔法は解けて、きみは人間の女になった。穢れないままではいられない。土を知り、醜さを知り、感情を知り、それらを濾過して美しく昇華すればいい。そう教えてくれるひとだと思った。

 

 *

 

 このような文章を、空に太陽がのぼるまえの薄闇のなかで綴った自分の気持ちを想いだすことは、もうわたしにはできないことです。しかしこの日、皆既日食が起こったことは、よく覚えています。そして日食とは、なにかのはじまりでありおわりを象徴しています。わたしにはあの日にむかえた「おわり」と「はじまり」の末にいまの自分がいることがわかっているし、またあのとき感じた光と闇は、いまもまだわたしのものです。わたしはあのときと変わらぬ希望と不安のなかにいて、それはわたしがわたしであるかぎり、もちつづけなければいけないもののようです。

 

 

 今日は夏至。自分自身を受け入れる日です。どのようなときもわたしはわたしであることを、あなたはあなたであることを、頑張ってきました。だから「もっと頑張らなければ」「もっと出来るはず」という気持ちを、どうか今日だけは手放して、自分自身を認め、褒めること。これはわたし自身にむけた言葉でもあります。わたしはわたしを愛したくてもがき、その方法を模索しながら、一歩ずつまえに進んできました。あの日の悲しみと苦しみはたしかにわたしのものですが、それはもう、あとに置いてきたものです。いまでもそれはわたしの背後にあるけれども、もうわたしは、その場所にはいません。しかしどこに行こうとつねに、《夏》の日のわたしであることに変わりはなくて、移ろうものと移ろわないものに想いを馳せている、そのような夜です。

 

 あまりにも個人的なことばかり書いてしまいました。わたしがなにをいっているのか、あなたにはさっぱりわからないかもしれませんね。でも、それでいいのです。これはわたしの夏至の日の、わたし自身への手紙だったのかもしれません。

 

 ところで、夕方の空を眺めましたか? 魔法の気配に満ちたあの空は、まるで妖精の翅の色のようでした。あなたがたとわたしの祝福を、祈っているようでもありました。どうかわたしとあなたがたに幸いを。今宵の夢がフェアリーテイルに満ちていますように。

 

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