月よ夢よ

親愛なるあなたへのお手紙として

手をのばしてはひっこめて

 

 

 「他人を否定する者は、そのひと自身が問題を抱えていて、それを誰かになすりつけたいだけだから、気にしないほうがいい」というようなことを、わたしにいってくれたひとがいました。他者が自分にむけた言葉に敏感に反応してしまいがちなわたしには、それは目がさめるような考えかたでした。誰かに《否定》されたとき、わたしはわたしのなかにある「問題」を考えてきました。「わたしのどこが《悪くて》このひとはわたしにこのようなことをいうのだろう」というような思考にかたむきがちで、自分自身の「問題」を探していました。しかし相手の《否定》がわたしにとって傷つくものであるほどに、その《否定》を改善するためにわたしにはどうするこもとできないという結論に達することがおおく、それもひとつの自分の不徳によるところだと思ってきました。

 

 しかしたしかに相手はおのれの「問題」をわたしに投影し、それを《否定》することで「ただしさ」をおしつけ、そして正当化することで自分自身を納得させ、安堵したかっただけなのかもしれないのです。

 

 たとえば恩田陸さんの『蛇行する川のほとり』というご本に、ひとりの少女の独白としてこのようなことが書かれてあります。

 

 

 有頂天になっていると、見ていた誰かに突き落とされる。素晴らしいことに胸を躍らせていると、必ず誰かが「そんなつまらないもの」と囁く。そうして、背伸びしてはうずくまり、手を伸ばしては引っ込めて、少しずつ何かをあきらめ、何かがちょっとずつ冷えて固まってゆき、私は大人という生き物に変わっていく。

 

 

 

 この文章にはじめて目で触れたとき、わたしは「大人になること」は「諦めてゆくこと」なのだろうかと感じたことをよく覚えています。そのころたしかわたしは、法律的に成人を迎えるまえで、自分がまだ何者かもわからないままにその「わからない」ということに楽しさと安心と気安さを感じていたころだったと思います。いまでもわたしが「何者」かだなんてわかりません。「何者」にもなれず、時間だけがこのまま移ろってゆくのかもしれない。しかしそれに焦燥のようなものはありません。わたしが「何者」になる可能性の種をやどしていたとしても、まずわたしは《わたし》にならなければいけないのだと、近年になってようやく実感としてわかってきたからです。「わたしがわたし」にならないことには「何者」にもならず、わたしの心が芯から満たされることもないでしょう。

 

 そのような観点から見ると、「他人を《否定》するひと」はたしかに自分の問題を他者におしつけているように、「わたしがわたし」になることから逃げているように、わたしにも感じられます。強調しておきたいのは、それが「悪いこと」であるとはわたしは思っていないということです。苦しくて痛くて辛くて「自分自身」とむきあえないでいるひとは、それだけ傷ついてきたかただと思うからです。わたしがいいたいのはしかし、「だからといってその疵を他者におしつけていいことにはならない」ということ。そしてその「自分の問題を他者におしつけてくるひと」の《否定》には、わたし自身悩んだり傷ついたりするのはやめたいということ。 「わたしのどこが《悪くて》このひとはわたしにこのようなことをいうのだろう」という思考は、わたしの傲慢であるかもしれないと感じたのです。わたしはまずわたしを満たさなければ、他者を「満たす」存在にもなれない。自分自身を満たすことをなによりも大切にしようと、近ごろは考えています。

 

 わたしが喜んでいるとき「そんなつまらないもの」といってわたしを「突き落とそうとするひと」は自分に問題を抱えているひと。のばした手をひっこめることはないし、それで喜びを減少させること、感情を衰えさせてしまうことは、あまりにももったいないことです。

 

 そのように考えるようになりました。あなたにも、そのように考えてほしいのです。あなたもわたしも、喜びを享受する資格があり、自分自身を満たすことに罪悪感を抱くことはないのだと。

 

 もちろん、《否定》と《指摘》はまったくことなるものです。そのこともゆめゆめ忘れないようにしたいものです。