月よ夢よ

親愛なるあなたへのお手紙として

シンデレラ・コンプレックス

 

 

 自分をすくえるのは自分だけ、というのはある時期からわたしの最大の呪文となっています。この「すくう」は「救う」でもあるし、「巣食う」でもあり、おのれを救済するのも蝕ませるのも自分自身であるという意味を、その呪文のなかにこめてわたしはわたしに、おとぎ話を囁くように呟くのです。これは「他人は助けてくれない」といっているのでも、「他者からの傷は幻だ」といっているのでもなく、ただ自分の責任を放棄してしまったらどうにもならない、ということとして。

 

 責任とは「わたしがわたしとなること」なので、「自分であること」を培い育まなければ、わたしが望むような花はわたしから咲くことはないでしょう。

 

 たとえばシンデレラのこと。

 

 女の子たるもの、一度はシンデレラという存在に憧れるものらしいけれど、わたしは年を重ねるごとに「シンデレラがいかに大変か」ということに思いを馳せてしまうのです。彼女は生まれながらのお姫さまではありません。白雪姫も茨姫も、ラプンツェルだって、みんな身分は《お姫さま》であるなかシンデレラが異質なのは、王子さまによって《選ばれる》ことでプリンセスという冠を手にしたということ。そしてそのために、多くの女の子にとって憧憬の対象となりえる。

 

 しかし「生まれながらの」お姫さまではない彼女は、自分の容貌と言動で《プリンセス》であることを認められなければなりません。それもシンデレラのお相手は舞踏会ではじめて逢った王子さまが相手なので、信頼もつちかわれてないし自分の愛を捧げるのにかれがふさわしいひとかもわからない。あの《選ばれた》瞬間が彼女の人生最大の幸福である危険だって充分にありえます。

 

 それなのに賭けに出たということは、よっぽど現在の状況から脱却したかったのだと、わたしはずっと思っていました。でもそのように現実から逃れたさきに(あえて《逃れた》という表現をつかいます)、ほんとうのハッピーエンドが待っているかどうかは、やはり自分次第でしかありません。シンデレラはたしかに「幸福になる機会」を手に入れたかもしれない。けれども真実幸せになれるかは、彼女のその後のおこないによります。

 

 たとえば「ここではないどこか、いまではないいつか」をわたしたちは夢みたりします。しかしやはり「自分」をどうにかしなければ、どこに行ってもおのれが望む幸福はやってこないでしょう。わたしは『シンデレラ』にいいがかりをつけたいのではありません。絵本を読んでいた幼いころ、わたしもあの見事な逆転劇に胸をときめかせたものです。

 

 けれども「王子」に《選ばれた》から《最高の女性》であるという、「誰か」によっておのれの価値が変わるという思考は、すこし危険なものであるかもしれないと、同時に感じます。おのれの価値はおのれで証明しなければいけないし、だから彼女は自分の容貌と言動で《プリンセス》であることを認められなければなりません。

 

 正直なところ、容貌と言動と聡明さがそなわっていたとしても、まず活力がないと達成不可能なのがシンデレラにおける「プリンセス」だと思うので、その称号は果てしなく重いものだと感じます。だから彼女はやはり「ハッピーエンドのそのあと」がとても大変だと思いますし、舞踏会の一瞬の歓喜が人生の最高潮に幸福な瞬間として永遠に刻まれないよう、わたしは祈らずにはいられないのです。

 

 シンデレラにはもちろん、その大変さを「困難」とせず乗り越えることのできる気力と忍耐と陽気さがあることは、彼女の美徳として作中に書かれています。《プリンセス》であるには、おのれの「困難」を困難とせず、ほがらかに笑ってみせる余裕が必要なのかもしれません。