月よ夢よ

親愛なるあなたへのお手紙として

輪るピングドラムという名の運命、あるいは愛

 

 


 わたくしごとですが、というよりもここに綴ることはすべて私事なのですが、友人と『輪るピングドラム』という作品を鑑賞しながら1話ずつ意見を交換しあうという遊びを、たしか去年からやっています。

 わたしたちのこの遊びは、休息と活動を繰り返しながら、現在ようやく14話までの意見交換を終了させました。そして先日15話を視聴したのですが、なぜだかわたしはこれまで見てきたこの作品のなかのどの話よりも自分のなかでエキサイティングするものを感じ、友人の許可を得て、この15話に寄せたあくまで個人的な感想をここに残しておきます。

 これは『輪るピングドラム』、そして『少女革命ウテナ』という作品をご存じでなければちんぷんかんぷんな文章になっているかもしれません。できるだけ配慮したつもりですが、そもそもピングドラムウテナがお好きでないかたはご覧にならないだろうと踏んで、ほとんどそのまま掲載します。

 

 ねたばれに考慮しておりませんので、ご注意ください。


 

 「おまえはとても醜いんだよ」と父親にいわれて育った娘は、どのような気持ちになるか、どのような疵を心に受けるか、そしてそれがどのような歪みをもたらすのか、という主題を時籠ゆりという存在は過去によって抱えていた。

 

 彼女の父親には「子供」という概念がなかった。ただ「美しい芸術品のようだった女」、この世のヴィーナスみたいな女、「美」を生みだす自分に誰よりも「ふさわしい」と信じた女(「ようだ」「みたいな」という比喩からもおわかりのとおり、それは幻想でしかなかった)を伴侶とし、その女が「子供を生む」という現実に根ざした行為をなした結果、かれの気に入る芸術(要するにかれのとっての「幻想」)ではなくなってしまったことによる失望によって、かれは楽園からエヴァを追放するがごとく、自分の世界から女を放擲しようとした。あの男はものもいわなくてもいい、片腕が欠けていてもいい(ミロのヴィーナスのようにね。その象徴がゆりさんの怪我した片腕にあらわれている)、ただ「美しくあること」だけを女にもとめていた。

 

 つまり夢ね。

 

 夢と結婚を結びつけるのはむつかしいわ。結婚とはどこまでも「現実」であるから。結婚は夢が死んだところからはじまる現実という器に容れられた「生活」だもの。それは雷をうけて死ぬことさえ厭わない「夢のなかをさまよう恋」の性質からははるかに遠ざかるものだわ。「生活」の覚悟のないものは、子供をもってはいけない。わたしはずっとそう思っているし、今回のお話からもおなじような印象を受けた。

 

 だいたい、美しかった妻の二重写しの鏡を娘に見るなんて三島由紀夫の『女神』でもあるまいし。そう、あの男は「妻」を放擲したように見えて、まだその夢の名残を忘れられないでいる。だからおそらくゆりさんを「女神」にしたかったのね。ゆりさん――自分の娘を「醜い」とのたまったのは、おのれの「女神」をただの人間に変えてしまった、魔法の終わりを告げるように呪われたその子をとても憎んでいたからよ。でもかつての「女神」に似ているその子を、無視することはできなかった。だから「生きている人間」ではなく「夢のなかの住人」にしようとした。おぞましいったらないわね。

 

 ゆりさんが男を忌避するようになったのも、おそらくは父親の影響なのでしょう。ももかに恋をしたからじゃないわ。だってももかは男とか女とかこえたさきのところにいるように、少なくともゆりさんにはそのように感じられていたように、わたしには思えるから。

 『輪るピングドラム』を制作された幾原監督は、『少女革命ウテナ』もつくられたわけだけど、わたしはウテナに登場した枝織という少女と、ゆりさんが重なるように感じられてならないの。

 

 たとえばウテナにおいて「枝織」は「自分が美しくないことを知っている」少女だった。「虫を醜い」とする世界のなかで、「醜いものならば踏みつぶしていい」というルールがあったとする。その世界で枝織は「わたしは虫である」と少なくとも自分自身では感じ、「踏みつぶされないために」「踏みつぶす」ことで「自分は虫じゃ(醜く)ない」と主張し、「虫を踏みつぶす立場にある自分は美しい」という原理のなかで生きていた。

 

 ゆりさんもおなじだと思ったの。「自分が醜い」ならば「美しくなればいい」という発想のもとで行動しているような気がする。ゆりさんの原理は「選ぶもの」と「選ばれるもの」であるかもしれないと、わたしには感じられた。美しいものは「選ぶ」ことができる。醜いものは「選ばれる」のを待つしかなく、そしてその手が自分を指すことは永遠にないのだと知りつつ、むなしく「選ばれる」のを待つしかない。

 

 枝織の原理は「醜いものを踏みつぶしてもいい」というルールがあるとき、それを「踏みつぶす」ことで自分の美しさを証明するものだった。対してゆりさんの原理は「醜いものは選ばれない」というルールのもとで、「美しくなれば選ぶことができる」という転換のもと、「選ぶ」立場にある自分は美しいとするもの。

 しかしこういうことは、彼女たちの飢餓感を増長させるものでしかないわ。

 

 なぜなら彼女たちは知っているから。「ほんとうに美しい」ものは、醜い虫を踏みつぶしたりしない、そもそも虫を「醜い」とする発想がない。そして「選ぶ」とか「選ばれる」とかいうルールから自由であるものこそ、真に愛あるものであり、「美しさ」のなかには「愛」がなければそれはがらんどうの伽藍でしかないということ。「伽藍」を手に入れても、その奥に「神」がいけなければなんの意味もない。そして「神」とはもちろん愛のことよ。その「ルール」に縛られているあいだは、彼女たちに自由も解放もない。ただ「わたしは美しい(いいえ、ほんとうは醜い)」を繰り返すだけ。

 

 だから枝織は樹璃さんを憎んだわ。そしてゆりさんはももかを愛したんでしょう。やはりわたしは、枝織とゆりさんには共通するものを感じる。

 

 

 ここまでがわたしが友人に寄せた『輪るピングドラム』の15話の感想です。そもそも1話にはどのような言葉でこの物語のことを綴っていただろうと振り返ってみると、このようなものでした。ついでなので載せておきます。

 


 まず、この物語のテーマは「林檎」なのかもしれないと、なんとなく思ったの。何気ないシーンに小学生たちの会話が流れていたわね。聞き逃しそうなほどに、耳を澄まさなければ聴こえないような会話だった。「愛の死によって運命のむこうがわにすすんだ者の象徴」というようなことを、幼い子がいっていたわ。それはカムパネルラと乗客たちが見た世界だと。宮沢賢治を秋に読み返したいと思っていたからちょうどいいかもしれないわ。つぎの鑑賞会までに銀河鉄道を再読しておきたいような気持ちね。きっとこの物語と無関係ではないと思うから。

 

 林檎が象徴するもの。わたしは林檎といえばやっぱり、アダムとエヴァの禁断の実を思いだすのだけど、「愛の死によって運命のむこうがわにすすんだ者」とはアダムとエヴァにも当てはまるわ。神の庭という美しい夢の世界から、醜い現実の荒野へと「すすむ」ことを選んだ男と女。美しい庭とは鳥籠の世界。その狭さと小ささのために、すべてのものが《美》を纏うことのできる夢の世界よ。それは幼少期を象徴しているように、わたしには感じられる。

 

 空のひろさを知らないで、「あの場所は危険だよ」「ここにいたら安全だよ」と聞かされて育ったら、雛は飛ぶことを知らず、知らないままに「飛ぶ」という選択肢すらおのれのなかで排除してしまう。エヴァは「飛ぶ」ことは罪深いことだと神さまにいいふくめられていたにもかかわらず、おのれの意志によって林檎を食べた。

 

 このことを「原罪」なんていったりするけれど、思考することは罪であり、あなたはただ遙かに高いところから手を差しのべてくれる「神」のことだけを信じていればいいとするほうがよっぽど罪深いことだと、わたしは思うわ。盲信は愛ではない。エヴァは「飛ぶ」ことを選んだわ。温室という巣のなかで羽がおおきくなりすぎて飛べなくなってしまうまえに。

 

 なんのお話をしているのかしらね。

 

 あ、それとひまりが帽子をかぶったときに、生存戦略のための「異空間」が出現するでしょう? 彼女が階段をおりるごとに閉ざされていたその「階段」がひらかれる。あの「階段」、なんだか人間の骨のようだと感じなかった? わたしには肋骨のように感じられた。エヴァの肋骨、というわけかしら? ふふ。もしかしたらあの空間はひまりの肉体のなかなのかもしれないわね。

 

 ぜんぜん関係ないけれど、罰は×でもあるわね。失格という烙印をおされたもの。人間失格なんて題名の書物があるけれど、人間に失格も合格もない。少なくともわたしはそう思うわ。登場人物の名前の漢字を知りたくて公式サイトを覗いてみたのだけど、これはねたばれになってしまうのかしら。あのね、今後登場するであろう人物(お顔だけなら第一話でも登場している女の子)に「りんご」という名前がつけられているのよ。「林檎」ではなく「苹果」の表記だったけれど、重要なキイワードね。

 

 生まれることは罰を受けること。アダムとエヴァの子孫であるわたしたちは、それぞれに原罪を背負っている。けれどもエヴァが「選択」したさきであるはずのこの世界が、ほんとうに罪深い場所なのかしら。その罪とはだれが決めるの? もちろん、神さまね。それは「運命のいたる場所」にいる御方なのかしら。

 

 そう、この物語は第一話にして《死》を迎え、なにかが終わった。それがなんなのかは、今後語られてゆくのでしょう。そしてなにかが始まった。かんば、だったかしら。上のお兄さんのほうはなんらかの事情に感知していそうね。なんとなく。かれらの親がどうなっているかは想像するしかないけれど、かれらの《罰》と無関係ではないのでしょう。わたしはね、かれらの両親こそ、アダムとエヴァの象徴なのではないかと思ったの。ふたりの兄はなんだか双児のように感じられて、カインとアベルはたしか双生児だったのではないかしら、とふと思ったの。

 

 カインは賢く、知に優れていたにもかかわらず、神に愛されたのは無垢なる弟だった。《神》。でもそうなるとひまりちゃんの存在が説明できないのだけど、もしかすると《愛》のためにこの子は必要なのかもしれないわ。この子の《運命》によって世界が変わる。そんな気がするの。ペンギンは「飛べない」鳥。でも「飛べる」ことを知らないだけなのかもしれない。それに海のなかなら「泳ぐ」ことはできるわ。地上で「飛べない」のなら、おのれの世界を変えればいい。海のなかでは自由に「飛ぶ」ことができる…。

 

 なんなのかしらね。思いついたままに書いているから気にしないで。

 


 この作品をまだ15話までしか見ていませんが、《運命》とはなにか、ということを、繰り返しわたしたちに問いかけてくるものであることは、ずっと意識しています。運命。それはあらかじめさだめられたものなのか、それともかえられるものなのか。 みんなたったひとりで戦っている。運命という十字架とは、ひとりで戦うしかない。その果てに勝利があるのか敗北があるのか、それはわからないけれども、わたしたちの人生は選択の連続であり、選択とはつねに戦いであって、戦いは愛であり、だから愛とは孤独のなかにこそある、とわたしは思うのです。これは「愛」を描いた物語なのだと、現時点では感じていますが、この《運命》がみちびく終着点に、今年中には辿りつけるでしょうか。